2026/03/30
愛知県美術館の裏側 なるほど!「保存修復」過去から未来へ作品を届ける大切なバトンをつなぐ
美術館で静かにたたずむ一枚の絵。その展示の裏側で、作品を未来へつなぐための仕事が行われていることをご存じでしょうか?何十年、何百年も前の作品の状態をできるだけ変わらず保つため、劣化や損傷を防ぎ、ときにそっと手当てをする、まるで作品のお医者さんのような存在。「保存修復」の仕事は表には出てきませんが、美術館を支える大切な取り組みです。知られざる世界の扉を、少しだけのぞいてみませんか?

愛知県美術館の「修復室」を初めて訪れると、好奇心がどんどん湧いて、いろいろなことが知りたくなります。そこで、保存修復担当の桒名(くわな)学芸員に、あれこれ質問に答えてもらいました!

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【Q】「保存修復」ってなんですか?なぜ大切なのでしょうか?
桒名 保存修復の仕事は、その名の通り「保存」と「修復」の二つに分けられます。保存は、作品が劣化や損傷などで壊れないように守ること。最近の美術館では「保存」の中でも、できるだけ壊れないようにする「予防保存」に力を入れる傾向が強いですね。修復は、それでも壊れてしまったものを直すことです。私はその両方を担当しています。作品や作家に関する美術史的な研究をする学芸員とは異なり、作品を物理的に残していくことを考えるのが保存修復担当の学芸員の役目です。日本語では同じ「学芸員」ですが、英語では美術史の専門家はキュレーター、保存修復の専門家はコンサバターと呼ばれ、両者は明確に役割が違うのです。
今、私たちが歴史的にも貴重とされる絵画や文化財を見ることができるのは、過去に残そうとした人がいたからです。だから、未来の人もまたこれらを見られるように、できるだけ同じ姿で残していくことが使命だと思っています。国にとってとりわけ大事な文化財を守るための「文化財保護法」も、1949年の法隆寺金堂壁画焼損をきっかけに制定されました。壊れて取り返しがつかなくなったことへの反省から、そうならないように努める「保存」という考え方が出てきたのです。
【Q】「保存」は、具体的にどんなことをするのですか?
桒名 作品は完成したその瞬間から劣化が始まります。原因は温度や湿度、光、虫、カビなどさまざまです。何もせずに置いておけば、少しずつ傷んでいってしまいます。なので、劣化が起こらない、あるいは劣化を少しでも遅らせるための環境を整える、というのが保存の仕事です。収蔵庫は頑丈な造りで、温湿度が一定に保たれています。でも、展示室では照明を当てないと作品が見えないし、人の出入りも、さらに言えば虫や菌の出入りも多いので、いろいろな対策が必要になります。展示室の照明が少し暗いのも、実は作品保護のためです。室内の隅には虫の捕獲状況や温湿度を計る器具を置いていて、細かいケアをしています。
また、展示される作品の素材は展覧会によって異なるので、何を展示するのかキュレーターから聞き取って、それぞれに合った温湿度設定を考えます。紙は乾燥しすぎないよう少し湿度を高めに、金属は逆に錆びないよう低めに。季節も考慮しながら、館内の警備や空調管理を行う中央監視室の方と連携し、開催中も調整しながら環境を保ちます。地味ですが、とても大切な仕事です。
【Q】「修復」についても教えてください。
桒名 愛知県美術館には9,000件以上のコレクションがあります。そのなかには収蔵したときからすでに傷んでいて、そのまま長く修復できていないものもあります。なので、展示前には必ず作品のコンディションを確認し、必要があれば汚れの除去や傷の手当て、額縁のメンテナンスを行います。館外へ貸し出す際は、長時間の輸送の振動などに耐えられるかどうかも確認します。
作品の素材は油絵、日本画、金工、漆工などジャンルによって多岐にわたり、近年はデジタルデータ自体が作品、という分野も出てきました。現代美術の保存はこれからの課題でもあります。私は大学院で修復を学んだので、応急処理であったり簡易な修復であれば自分で対応することもありますが、本格的な修復の場合は、素材ごとに適した外部の専門家に依頼し、どこをどう直すのかの細かな調整や契約手続きも行います。一日の半分は収蔵庫で点検や処置、残り半分は事務作業ということも多いですね。

ジョージ・シーガル《ロバート&エセル・スカルの肖像》(1965年)の修復作業の様子。石膏像で、割れている部分を接着しました。

【Q】1年にどれくらいの件数を修復するのですか?
桒名
作品そのもので10点ほど、額縁も含めると20点くらいでしょうか。損傷の程度によって数日で完了するものもあれば、何か月もかかるものもあります。予算や日数に限りがあるので、毎年修復計画を立てて優先順位を決めています。

取材時に修復室にあった作品は、松下春雄《髪を洗ふ女》(1930年)。古くなったキャンバスの補強や破れの修復のため、「裏打ち」の作業などが行われました。
【Q】「修復が必要」と判断する基準は?
桒名 二つあります。ひとつはキュレーターの視点で、作品本来の魅力や意義が正しく伝わらない状態かどうか。もうひとつは、保存修復担当(コンサバター)の視点で、展示や輸送に耐えられない構造的問題があるかどうかです。
処置は必ずキュレーターとチームを組み、話し合いながら進めます。私は作品の物理的な状態を見ますが、美術史的に何が大事かはキュレーターが判断してくれます。そして「必要最低限の介入にとどめる」という修復倫理を大切にしています。作品の価値を維持するために、触ってはいけない部分もありますから、やりすぎないことですね。頑張れば修復できるかもと思うことがあっても、無理をしてやるものではありません。
たとえば油絵の場合、欠けてしまった場所に色を補うとしても、原則として油絵具は使わず、将来もっと良い材料で安全にやり直せるように、水彩やアクリルなど除去可能な材料を選びます。展示や輸送が可能な状態まで安定させたら、数十年後の修復家が最新の技術や素材でやり直せるよう、「よろしくお願いします」と未来にバトンを託す感覚です。また、どこをどう直したのかという処置内容は記録として残し、将来の判断材料にできるようにしています。
【Q】どの美術館にも保存修復担当者(コンサバター)がいるのですか?
桒名 海外の美術館では保存修復の部門があり、処置する人、記録する人、判断する人と役割分担されていることもありますが、国内で専任のコンサバターがいる美術館は十館ほどと限られています。そのため、コンサバター同士で情報交換をしながら知見を深めていますし、コンサバターがいない館の学芸員から相談を受けることもあります。
作品はひとつひとつ制作時期も構造も違うので、保存や修復のやり方も全部ケースバイケースです。リスクヘッジの意味でも、一人で決めず、私も誰かに助言を求めることが多いですね。当館のコンサバターは私一人ですが、保存修復に関心を持つキュレーターが多いので、一緒に議論できる良い関係が築けていると思います。
【Q】「修復室」とはどんな場所ですか?
桒名 実際に修復の処置をする部屋で、24時間、空調で温湿度を一定に保っています。
有機溶剤を使うこともあるので、排気ダクトを備えています。病院や理科室、図工室で見かけるような注射器やピンセット、顕微鏡などの器具もありますね。
窓は紫外線防止のため普段は遮光していますが、油絵の色合わせは外光で行うのが理想なので、必要に応じてカーテンを開けます。


作品に付着した汚れを、綿棒と筆で丁寧にクリーニング。補修用接着剤の膠(にかわ)は、使う前に湯煎で溶く必要があるので、哺乳瓶ウォーマーを使っています。
【Q】今までで一番修復が大変だった作品は?
桒名 現在進行中ですが、1960年制作の油絵で、いまだに絵の具が固まらない作品があります。89年に収蔵し、92年の開館時に展示したところ絵の具が垂れてしまい、それ以来収蔵庫で平置きにして保管し続けています。原因を探るため分析も行いましたが、決定打はまだ見つかっていません。なんでもすぐに手をつければいいというわけではなく、こうして修復技術や調査方法の進展を待っている作品もあります。
【Q】保存修復のやりがいを感じるのはどんなときですか?
桒名 キュレーターが展示したい作品を、無理なく展示できたときですね。そして、修復した所が気づかれないまま展覧会が無事に終わるのが嬉しいです。私自身は展覧会をつくることはできないので、キュレーターは本当にすごいと思っています。修復作業中は繊細な作品と向き合っているので、常に緊張感がありますが、作品を誰よりも近くで見られるのはこの仕事の特権です。表面からは見えない内部からわかることもありますし、調査や分析で新しい発見があったときは本当にワクワクします。たとえば、ピカソ《青い肩かけの女》(1902年)やフランティシェク・クプカ《灰色と黄金の展開》(1920-21年)の下層に別の人物像が描かれていることも、保存にまつわる調査からわかったことです。隠れているイメージを見つけるところまでは私の仕事で、その意味を読み解くのはキュレーターの仕事。調査の結果がちゃんと展示に活かされて、広く知ってもらえると嬉しくなります。

フランティシェク・クプカ《灰色と黄金の展開》(1920-21年)のX線画像(左に90度回転)の下層に、女性像と思われる別の絵が描かれていることがわかります。
——いかがでしたか?作品は、ただそこにあるのではなく、誰かが過去から現在、そして未来へと手渡していくものなのです。保存修復は、その静かなバトンリレー。いま目の前にある作品も、誰かの「残したい」という思いの積み重ねです。少し暗い展示室にもちゃんと理由があって、守る人がいるからこそ、私たちは素敵な作品に出会える。そう思うと、美術館で過ごす時間が、少し特別なものに感じられるかもしれません。

ジョージ・シーガル《ロバート&エセル・スカルの肖像》(1965年)の展示風景。
撮影・編集/村瀬実希(MAISONETTE Inc.)
※ 掲載内容は2026年3月30日(月)現在のものです。










