2025/12/18
愛知県文化会館 開館70周年記念インタビュー【図書館】当時の図書館職員の生の声で「あの頃」を振り返る
聞き手/愛知県美術館 主任学芸員 石崎尚
愛知県文化会館は、サンフランシスコ講和条約発効を記念して名古屋・栄、現・オアシス21の地に建設された、戦後の愛知初の本格的な文化施設です。1955年に美術館、1958年に文化講堂、1959年に図書館が開館。三つの施設が一体となった複合文化施設は、1992年10月の愛知芸術文化センター開館まで40年近くにわたり、県民のみなさまに親しまれてきました。
2025年、美術館開館70周年の節目に、文化会館の現場で働いていた職員にインタビューを実施。最終回となる第3回「図書館」編には、高木久子さん、村上昇平さん、坂野久子さんをお迎えしました。村上さんと坂野さんは愛知県に同期で入職、高木さんはお二人の先輩にあたります。久しぶりの再会となったこの日は、終始和やかな雰囲気のなかでインタビューが進みました。一つのエピソードから「そういえば……」と記憶がよみがえり、思い出話が次々に広がる場面も。「図書館」と一口に言っても、そのあり方は時代によってさまざまです。記録には残されていない貴重なエピソードの数々から、当時の図書館の姿が生き生きと浮かび上がってきました。

写真左より、坂野久子さん、高木久子さん、村上昇平さん。

図書館エントランス
- 目次 -
産業振興と郷土資料の充実を重視した、愛知県文化会館図書館の記憶
──みなさんが働いていた愛知県文化会館図書館は、どんな施設だったんですか?
村上 当時の運営方針について、私自身「なんて古典的なんだろう」と感じることがありました。中学生以下は中に入ることができず、児童向けの資料も一切所蔵していませんでした。閲覧室は男子高校生用、女子高校生用、一般用の1・2階席で分かれており、カウンターで番号札を受け取って入退館を管理していました。また、館内には小さな食堂もあり、「ここのカレーが好きで食べにきた」と来館される方には、食堂利用の札をお渡ししていましたね。
高木 私も中学生のとき、入館を断られた記憶があります(笑)。

──今の図書館とはまったく違いますね。この記事を読まれる方も驚かれるのではないでしょうか。
坂野 名古屋市では、昭和区の鶴舞図書館と他の各区に分館1館ずつの16館体制で、子どもから大人まで利用できるのはもちろん、当時の市立図書館としては先進的なサービスが提供されていました。一方、文化会館図書館は調査研究や産業振興といった専門分野に特化しており、お互いが異なる立場からサービスを提供するという関係性だったと思います。
村上 調査研究では、特に愛知県に関する資料の収集に力を入れていました。名古屋市と愛知県が連携して、「愛知県全体の資料収集」を目的とした役割を担っていたのです。
坂野 当時は、すべての市町村に図書館があるわけではありませんでした。文化会館図書館は事務局を設け、他の図書館とのネットワークを構築し、県内各館が所蔵する郷土資料の総合目録の作成にも取り組んでいました。
村上 産業振興のなかでも大きな役割を果たしていたのが「産業資料室」です。特許公報や実用新案などの資料を収集し、分野別に整理・製本して提供していました。分類や整理には高い専門性が求められ、これにかかる経費は図書部全体の予算の半分近くを占めていました。愛知県内の他館にはない場所で、弁理士の方々が特許出願前の確認に利用されることも多かったです。

産業資料室

──産業関係の方にとっては、大変ありがたい図書室だったのですね。
村上 当時は、紙の資料を現地で調べ、コピーを取って持ち帰る必要がありました。この機能は新しい愛知県図書館にも引き継がれ、4階東側に膨大な量のそれらの資料が並べられました。今もそこの書架の間隔が狭いのはその名残です。現在、これらの情報は特許庁からインターネット上に公開されています。
坂野 コピーもセルフサービスではありませんでした。著作権の関係で、すべて職員が行っていたのです。

目録とリフトと番号札──“貸さない図書館”の現場から
──文化会館図書館は閉館するまで、調査研究と産業振興という二つの柱を大切にされていたのですね。実際に携わったお仕事や、印象に残っていることはありますか。今の図書館業務とは、かなり異なる点も多いのではないかと思います。
村上 現在の図書館との大きな違いの一つは、図書の貸出を行っていなかった点です。図書館といえば貸出サービスが中心というイメージがありますが、文化会館図書館は閲覧のみで、資料の持ち出しには対応していませんでした。資料はすべて閉架書庫に収められており、現在のように自由に手に取って読むことはできません。閲覧には手順があり、閲覧室の番号札は席の指定と資料請求の両方に使用されていました。まず目録室でカード目録(著者名・書名・分類)から請求記号を調べ、請求票に記入してカウンターに提出します。請求票はリフトで各フロアに送られ、準備された資料はカウンターで手渡されます。閲覧後は資料と番号札を交換し、札を出口で返却する流れでした。番号札を紛失すると返却確認ができず、退館できなくなるため、職員が対応に追われることもありました。特に閉館前は大変でしたね。
坂野 私は広報紙『ニュース窓口』を担当していました。前任は職員であり歌人でもあった永井陽子さん(1951〜2000)で、いろいろ教えていただきました。連載コラムや産業資料室、参考室の紹介記事も掲載していました。
参考室にはレファレンス資料が揃っており、一般の方や市町村職員からの問い合わせにも対応していました。インターネット検索ができなかった時代、本から情報を探すのは大変でしたね。
高木 参考係や郷土係では、役立ちそうな情報をテーマごとに切り抜いて整理していました。
村上 そうした作業を続けていると、だんだん勘が働くようになるんです。
──司書さんらしさが感じられるお話ですね。
村上 現在の愛知県図書館は月曜休館ですが、文化会館図書館は日曜休館で、平日は20時、土曜日は17時まで開館していました。土曜日は忙しいため、カウンター業務の奉仕課に加え、整理課も応援に入っていました。
──閲覧のない時間は、目録作成や選書を行っていたのですか。
村上 選書は役職のある司書が担当していました。調査研究用の資料が中心で、高額な資料を限られた予算のなかで購入するため、購入点数は少なめでした。

──高校生については、主に勉強が目的で、資料の閲覧はあまり重視されていなかったのでしょうか。
村上 そうですね。大学入試の倍率も高く、みなさん本当に熱心でした。浪人生の利用も多く、夏休み・冬休みには高校生が朝から並び、閉館まで勉強するのが日常的な光景でした。
高木 私も高校生のときにすごく並んで利用していました。空調が効いていて、とても快適でしたね。

閲覧室の様子

盛況の閲覧室(昭和40年頃)

入館待ちの長い列

──コレクション展の「みんなの文化会館美術館」では、お客さまから「文化会館といえば、受験勉強に明け暮れた青春の場所だった」「懐かしい場所です」というお声も多く寄せられました。文化会館は複合施設でしたが、高木さんは図書館の利用者だったころ、美術館や文化講堂にも立ち寄られることはありましたか?
高木 それぞれ目的が違ったので、合わせて利用することはあまりありませんでしたね。

2024年度第3・4期コレクション展「みんなの文化会館美術館」(会期終了)。文化会館美術館の開館70周年に合わせて、さまざまなエピソードを紹介しながら同館にまつわる所蔵作品を展示しました。
文化の香りに包まれて、複合施設で働くということ
──図書館、美術館、文化講堂の事務室は一緒だったのでしょうか。
坂野 美術館と文化講堂、総務課は同じスペースにありました。
村上 図書館の事務室は別で、1階には館長室と整理課、3階には奉仕課がありました。
──部屋が分かれていると、他部署の方と顔を合わせる機会は少なかったですか。
村上 いえ、出勤時に1階の総務課で出勤簿に押印する決まりがあったので、自然と他部署の方とも「おはようございます」と挨拶を交わしていました。
坂野 図書館は20時まで開いていたので、時差出勤の職員もいましたね。

──職員同士で交流する機会もあったのでしょうか。
村上 ソフトボールや野球などのレクリエーションがありました。私はあまり参加していませんが、栄公園でキャッチボールをしたりしていました。
坂野 愛知県文化会館美術館初の学芸担当だった木本文平さん(「美術館」編インタビュー)は、よく野球をされていましたよね。
村上 転出スタッフの送別会を兼ねて、記念の野球大会が開かれることもありました。春には鶴舞公園でお花見もしましたし、館内のレストラン「みかど」で、部署の垣根を越えて一緒にまかないランチをとることもありました。

──文化会館図書館は、美術館や文化講堂と同じ建物にある点も特徴的でした。そんな複合施設としての性格が、図書館の運営に影響することはありましたか。
村上 階段や閲覧室にはブロンズ像や絵画などの美術品が飾られていて、館内には文化の香りが漂っていました。文化会館の構想では、美術館の展示に関連するコンサートや演劇を文化講堂で開催し、図書館で関連資料を紹介するという考えもあったと聞いています。


新たな理念とともに、時代が求めた愛知県図書館のかたち
──愛知県図書館が現在の丸の内に移転してから、栄の愛知芸術文化センターとは物理的な距離ができたように思います。
村上 職員が顔を合わせる機会は減りましたが、あいちトリエンナーレの際に愛知県美術館のコレクションを展示したり学芸員を招いてトリエンナーレの見どころを話してもらったりするなど、連携は続いていました。
坂野 愛知県美術館の企画展に合わせた図書の展示や、視聴覚ライブラリーの企画も意識して行っていましたね。
村上 愛知芸術文化センターの建設時には、新しい図書館の基本構想として、4つの理念が掲げられました。「県民に開かれた図書館」「赤ちゃんから障がいのある方まで利用できる図書館」「市町村を支援する図書館」「芸術文化センターの一翼を担う図書館」です。文化会館図書館とは発想からして方向性が異なり、これは過去を否定するものではなく、それぞれの時代に求められた役割があったということだと思います。
現在の愛知県図書館は、時代に合わせてサービスの幅を広げました。資料の充実に加え、児童図書室や視覚障害者資料室も整備し、誰でも利用しやすい環境づくりが進められ、名古屋市の図書館とも切磋琢磨して高め合いながら、よりよい図書館を目指してきました。
──これまで資料でしか知らなかった文化会館図書館の内情を知って、だいぶ親近感が湧きました。今日はいろいろとお話を聞かせていただき、どうもありがとうございました。

高木久子
Hisako Takagi
愛知県職員として、愛知県文化会館・図書館部門、愛知芸術文化センター・図書館、アートライブラリー、美術館などの施設に長年にわたって勤務。退職後、現美術館所蔵作品、特に藤井達吉コレクションの調査研究に協力。
村上昇平
Shohei Murakami
1979年愛知県に司書職として就職。愛知県総合看護専門学校、愛知県立大学を経て、文化会館図書館に2年間勤務。愛知県庁本庁舎の新文化会館建設事務局へ異動。92年から愛知県図書館に4年間勤務したのち、愛知県立大学の長久手キャンパス移転および新学部の立ち上げに関わる。のちに再び愛知県図書館に戻り、12年間在籍。その後、大学で司書課程の講師を務めた。
坂野久子
Hisako Banno
1979年愛知県に司書職として就職し、愛知県立大学図書館(瑞穂区)に11年間勤務。90年文化会館図書館に異動、開館準備中の新図書館(丸の内地区)との間を行き来して相互の連絡業務などにも携わる。92年から愛知県図書館に4年間勤務。その後、ウィルあいちで開館準備や情報ライブラリー業務に携わる。以降、愛知県図書館、愛知県公文書館を経て、再び愛知県図書館に戻り、2018年3月退職。
愛知県文化会館 開館70周年記念インタビュー
出典/『愛知県文化会館閉館記念誌 愛知を彩る. ―37年のあゆみー』愛知県文化会館、1991年
編集/村瀬実希(MAISONETTE Inc.)
※ 掲載内容は2025年12月18日(木)現在のものです。

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